| 『ブドウとリスの彫刻』 | |
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拝殿向拝の「ブドウとリス」の彫刻、懸魚(けぎょ)は防火の意味があり、左甚五郎が日光東照宮の造営を終えての帰途、当神社に参拝し、その御神徳の顕著なるに感動し彫ったと伝えられている。欅材の透かし彫り。
また、この下にある「龍」の彫刻は江戸の名工初代梅輔の彫りで約2百年前のもので、1本の欅材を用いている。 |
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| 『やんさ祭り』〔特殊神事〕 | |
那珂川と久慈川とに挟まれた地域(旧那珂郡)の神社が、4月7日に平磯の磯崎海岸(現ひたちなか市)と酒列磯前神社に神幸する盛大な浜降り祭があった。一般にやんさまちと呼ばれのは、氏子が神輿を担ぐとき、「やんさ、やんさ」と掛け声かけることから、この名が起こったといわれている。しかし、昭和4年に執行されて以来中絶してしまった。
参加した神社は、現在の東海村、ひたちなか市、水戸市の一部、那珂町、瓜連町など、33か村、のちには48か村ともいわれている。常陸第二の宮とされる静神社の浜降りは特に顕著であった。『新編常陸国誌』には次のように記されている。
4月7日を神幸と云、その日遠近の民万余人或は馬に騎り、或は徒歩して神輿にこじゅう扈従し、平磯の浜に至る。
期日は当初4月7日であったが、のち4月9日→3月7日→4月7日と時代によって変わっている。この日、各神社の氏子がカシの6尺棒を組み合わせて担ぎ、神官は衣冠束帯に正装し、供先に一本の槍を立て、数人の稚児は武装して乗馬して供奉。神輿はいったん阿字ヶ浦海岸に下りると、波打ち際を酒列磯前神社のふもとまで進み、神の道を上がって、境内に到着したいう。
やんさまちのみ神輿出社の場合は、海浜の清浄石と酒列磯前神社であった。清浄石は古くは阿字石、護摩壇磯の名があり、徳川光圀公が清浄石と名づけたといわれている。多くの神がこの磯に漂着したという伝承がある。
清浄石と酒列社とにどのような順序で神幸し、神石上でどのような神事がなされたのか。東海村白方にある豊受皇大神宮(埴田宮・はんだのみや)も出社した神社であり、『埴田神宮年中行事并末社記』(元禄15年)には次のように記される。
先に磯前の社に神幸、行事あり、次に神輿を神石上
に御す。次に神楽石座行事、次に神膳、次に祓儀式、
次に祝詞、次に清浄石に神幸して神楽を奏す。祝詞、
神門石、次に還幸、神輿石座に安んず。
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| 『徳川斉昭公お腰掛の石』 | |
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鎌倉時代前期より昭和初期まで斉行された当社の大祭礼「やんさまつり」見聞にかかわる石 |
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| 『競馬祭』 | |
やんさまちは大きく二つに分けられる。前に述べたとおりの浜降りする壮大な神事。
一つは村松大神宮を出発した6頭の馬が、村松から阿字ヶ浦までの海岸二里八丁(約9キロメートル)を競い走る
雄大な競馬祭である。村々の神輿は磯崎の酒列磯前神社を目指して神幸し、磯降りしてから神社に参向する。
最初に到着する静神社の神輿は、荒波寄せる阿字石(清浄石)の上で神事を行い、村松大神宮の神輿が最後に着くと、
合図ののろしが上げられ、それを見て待機していた馬が走り出し、競馬祭が開始される。
騎士たちは、それぞれ赤、白、黄の鉢巻をし、左手に鉾を持って馬に乗り、村松大神宮近くの海岸を出発し、
波打ち際を疾走する。阿字ヶ浦の決勝点につくと、持参の鉾を投げて勝負を競い、1の鉾は豊年満作、2の鉾は浜大漁、
3の鉾は家内安全を祈ったものとして祝福された。この日の、観客の熱狂ぶりはも大変なものであったいう。
この祭りは、いつごろから行われたのであろうか。酒列磯前神社の社伝によると、源頼朝公がやんさまちのことを知り、
神社に神馬30頭を献上したとあるが、史料的に明らかではない。徳川光圀公と競馬とのかかわりについて『西山遺績』に次のように記されている。
元禄九年義公村松大神宮の競馬を観る。越て明年命じて其祭典を再興せしめすこぶ頗る奨励する所あり、以来各村々競ふて人をはし奔らせ馬四頭を精選し以て神馬に供ふ。
◇6頭の馬の内訳 東海村史民俗編より
長砂村 3頭
高野村 2頭
須和間村 1頭 |
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| 『東西金砂神社磯出大祭礼』 | |
浜降り(浜下り)は、ハマオリ、ハマクダリのほか、ハマデ(浜出)、イソクダリ(磯下り)、イソデ(磯出)などともに呼ばれ、
全国に分布する。浜降りには、個人が海浜に降りて禊(みそぎ)をするものと、神輿(みこし)が海浜に渡御して清めを
するものがある。九州南方の島々では、村をあげて浜降りをする例が多く、年中行事として3月3日に浜降りをするほか、
日常生活の中で日常生活の中で浜降りをし、不浄を祓って清めたりする。(与論島 沖宮司)神輿が海浜に降りて神事を
行う浜降り祭りは、太平洋岸に多く、特に九州南部と関東・東北に濃密に分布する。
個人の浜降りも、神事としての浜降りも、潮水によってけがれを清め、生命力の蘇生・回復を祈願するものであった。
『古事記』によると、伊邪那岐命が伊邪那美命のいる黄泉国から逃げ帰ったとき「穢き国に到りて在りけり。
吾は御身の禊せむ」と申され、筑紫の阿波岐原で禊ぎ祓いをされた。神威を回復されるため、大神もまた水辺に降りて
禊をされたのである。
西洋でも東洋でも、塩には神秘的・呪術的な力があると古くから信じられてきた。日本でも塩は神聖なものとされ、
夜間は売買もせず、塩ということばみ忌み謹んだ。潔斎や祓いには塩が必要であり、神への供物にも塩がなくては
ならなかった。葬儀に参列した者は必ず塩で清める風習は現在も行われている。
茨城県内の浜降り祭をみると、那珂川以北では3月、4月が多く、那珂川以南では6月、7月に集中する。
古い神社では4月7日や8日に多いのは福島型の南限とみることができる。
那珂川以北では、磯出、磯おり、磯くだり、浜降り、潮垢離(とおごり)などと呼ぶ。磯石の多いところでは磯出、
磯おりと称し、砂浜の多い海浜では浜降りといい、その本質は同じである。磯出も浜降りも湖水によっての清め
にあった。本県の代表的な西金砂神社の磯出も、水木浜の潮水を汲み御神体を清めることにある。
浜降り祭りは、東日本の太平洋岸に集中し、特に福島県は顕著である。その福島県と茨城県北部は、
阿武隈高地が連なり、地形的にも共通し、浜降り祭も春型(4月8日中心)であること、漂着神伝承が多いことなど、
祭礼の期日や伝承が極めて類似している。また、福島県には12年に一度という例が多くみられ、
60年に一度という例も明治年間まであった。(いわき市 佐藤茂宮司)
また、福島県には、数社が一緒に浜降りする寄合祭があり、競馬を伴う例もある。当地には、数十社が同じひに浜降りし、
競馬を伴う祭りが昭和初年までおこなわれていた。福島、茨城北部は同じ浜降り文化圏なのである。
4月7日の(やんさまつり)の時に、諸社の神輿が、磯崎海岸の清浄石、胎内石、長寿石、獅子石、鬼隠石、屏風石等の
岩石の上に安置し、そうして磯下りの遊戯をなすのであるが、磯下り前に酒列磯前神社に神幸される。こうした神幸のある時、
開基帳に先ず重乳根(たらちね)の神様を拝みとある。よって乳母神様の別名を持つ神社に諸社神が詣でるという説もある。
関連 産児制限 (平磯 磯前 前浜) |
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『さかつら椿』 (みごろは三月下旬) | |
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『古事記』の仁徳天皇のくだりに、「さしぶの樹、其が下に、生ひ立てる葉広ゆつ真椿、其が花の照りいまし、其が葉の広りいますは、
大君ろかも」とあるように、古代には、ツバキは神聖な樹として、天皇の権威の象徴ともされた。
また、景行天皇が豊後の国(ぶんごのくに・今の大分県の南部)において土蜘蛛を征伐されたとき、
ツバキの木を切って椎(つち)にしたものを武器に用いて戦ったという伝説があるので、ツバキに一種の霊力のあることが信
じられていた証拠である。
ツバキの語源については、これまでにいろいろな説がある。
貝原益軒は、ツバキの葉が厚いのであつば木といい、あが略されてツバキになったという説を述べている。
このほか、曽占春は光沢木(つやき)のなまったものといい、また言霊派の国学者堀秀成は、強葉木(つよばき)に基づくと唱えている。
しかし、すでに一部の朝鮮語学者が主張しているように、ツバキに当たる朝鮮語のtonbaik(冬柏)が転訛して日本語のツバキになったものと考えられる。
俗に椿の漢字をツバキに当てるが、椿はチャンチンのことで、正しい漢名は山茶である。
◇ツバキCamellia japonica Linn、はツバキ科の常緑小高木。ヤブツバキは本州の北端から、四国、九州、朝鮮半島南部の海岸近くの山地に多く生えている。 |
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『比観亭』跡(ひかんてい) 〔ひたちなか市指定史蹟〕 | |
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当神社境内地内にある比観亭跡は、寛政2年(西暦1790年)11月20日、水戸藩第6代藩主徳川治保公が当神社参拝のおり大宮司磯前氏屋敷当方の小高い場所にお登りになり、大海原と白浜青松の景色に心うたれ自ら小づかをもって整えられ翌年にはあずまやをお立てになり「比観亭」と名づけられました。 |
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| 『磯崎種吉翁胸像と顕彰碑』 |
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当社のみならず地域に多大の貢献をされました。 |
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| 『天皇陛下より幣帛料・幣饌料の御下賜告げる高札』 |
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| 『いかり』 |
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海上安全・大漁祈願に境内に奉納されています。 |